シンガポールの人々、韓国の保育関係者の方々が
「MIMAMORU」という言葉に含まれている意味を
「日本人的美徳文化」として、また「保育の本質」として
受け取っているということをお聴きしました。
セミナーの中でも、
「見守っているだけじゃいけないよ」
「もっとやってあげないといけない」
そんな言葉が出るくらい、日本の保育現場では
「見る」と「見守る」の違いが浸透していない状況ですが、
海外の方々はなぜ感じられるのでしょうか。
海外ではこの「見守る」というスタンスと概念を
保育における「より専門性の高い」ものと捉え、
日本では「放任」と取る。
不思議なものですね。
「見守る」ということを焚火に例えて聴くことがありますが、
焚火を「見て」いるだけでは消えてしまいます。
しかし、火を「見守る」というのは消えないように状態にあわせていきます。
ただの焚火であっても、薪をくべすぎてしまっては、火は消えてしまいます。
同じように子どもたちの「意欲」や「自らの育ち」や「発達」を考えていったとき、
「見て」いるだけでは消えてしまうでしょうし、「やってあげて」いても消えてしまいます。
それを思う時、何が子どもたちの「火」を消してしまうのか。
日本は一度共通理解を図る必要があるのだと感じます。
「ダイアディック」(二者関係)から「ソーシャルネットワーク」へ。
「子どもと先生」「やってあげる」「放任」という二者関係から、
人と人とが繋がりあっていく環境、関係づくりへ。
自分自身の仕事の仕方、仲間との関わり、それぞれの目線に潜む
刷り込みに気づいていきたいと思います。
ミマモリスト
眞田 海