長州での寺小屋や私塾のことを調べてみると、
その教育方針にも特徴がありますね。
とくに有名な松下村塾では
武士や名家ばかりが世に名を残すばかりではなく、
一般階級の人々が多く活躍しており、
江戸時代という階級制度の中で、この(多様性)ダイバシティーを
重視していたのはとても重要なことだと感じました。
「学ぶ」ということについても、特徴があります。
吉田松陰は入塾希望者に「なぜ学問をしたいのか?」とよく問うたと言われています。
門下生だった横山幾太、渡辺蒿蔵の回顧録によると、
そう問われた者の多くが大抵「書物が読めないので、稽古して読めるようになりたい」と言い、
すると松陰は「書物なんかは心掛けさえしておれば、実務を覚えるなかで自然と読めるようになる。
学者になっては駄目だ。人間、実行が第一である」と答えたそうです。
吉田松陰は門下生たちに対し、この「実行第一」を頻繁に述べたそうで、
あくまで学問は行動を伴ってこそのものであると述べました。
「至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなし」という孟子の教えを自身の座右の銘としたほどです。
また、教え方にも特徴があり、
「教える」ということについての定義も違いがありました。
吉田松陰へ生徒が「教えてください」と聴きに行くと、
ただ答えるのではなく、こんな風に答えたという話があります。
「教えてくださいと言うと、『教えることはできないが、君たちと共に学びたい』と先生。
我ら少年に先生はそんなふうに謙虚だった。翌日の夜、友人と行き、皆で本を読み話し合っていると、
午前4時の鐘が鳴った。すると『今から寝てはもったいない。君たちは詩を作りますか。韻を一緒に考えましょう』と先生。
皆、こたつに入り、あおむけになって詩を作った」
行動のために学び、身分も上下もなく一緒になって取り組み、
一緒になって深めていくというこの教育形態は
それこそ、今の時代が求める「アクティブラーニング」であり、
保育形態のように感じます。
そういった、教育に対する芯となる「理念」が
長州での人財育成が成功する環境づくりとなっていったのかもしれません。
ミマモリスト
眞田 海