毎月の初心会議で実施している「社内木鶏」。
今月は到知の12月号の記事の中から、この方の記事を選びました。
(「社内木鶏」については下記をご覧ください)
https://www.chichi.co.jp/study/contentsstudy/shanaimokkei/
平岡さんと佐々木さんの記事の中で人生に活かして行きたいと感じる教えがありました。それは「指導者は学ぶことを辞めたとき、教えることも辞めなければならない」という言葉でした。フランスのサッカークラブの監督の言葉であったそうですが、この言葉から感じるものが多々ありました。それは「指導者は何から学ぶのか」ということです。多くの場合、本やセミナー、先輩や有名な方々、偉人から学ぶということは多々あるように思います。しかし、その大前提に「指導しようとする相手から学ぶ」という姿勢があるかどうかが重要なのだと最近は痛感しています。保育であれば、目の前の子どもから学ぶ姿勢があるか。組織であれば、部下や同僚から学ぶ姿勢があるか。ということです。「この子のこんなところが素晴らしい」「あの子のこれが凄い」相手に良いところ探しだけでは、相手を「評価」することを超えません。「評価」の眼差しで相手を見るのか。それとも、相手から学び、そして自分自身が真似をしようという目線で相手を見るのか。見守る保育を実践する園さんにお伺いする中で、いつも感銘を受けるのは、先生方が「子どもから学んでいるんです」と仰る言葉です。子どもを育てるのではなく、子どもから学び、何が子どもたちの育ちを邪魔しているのかと環境面の必要性を学ぶ時もあれば、子どもから学び、私たち大人がどんな心や姿勢を忘れてしまっているのかという人間としての必要性を学んでいるその姿には、そこに本質的な関係性があるのだと教えて頂いているように感じます。本来の「学ぶ」とは「真似ぶ」という真似することが語源とありますが、この本来の趣旨を忘れずに、相手から「学ぶ」という姿勢が大前提にあるかどうかが、チーム作りや組織間の主体性、協働には欠かせない価値観であり文化であるのだと教えて頂いています。今月、あるお客様のところで、先生が一円対話のフィードバック役を担っていただく際の眼差しを相手を「評価」するのではなく「学び」の観点から見て頂きました。その先生が聴福人をされた先生に「あわただしくしないのに、スムーズに一円対話が進行していったあの丁寧さときめ細やかさを真似していきたい」と発した時、一部始終を見ていた私も「そんなふうに感じていたのか!確かに、それはそうだ!!」と新たな学びとなり、その真似ようとする姿勢の深さに驚き、私自身も大きく刺激されました。評価の上手さでは到底たどり着けない境地のように感じました。自分自身の「評価」の眼差しを「学び」の眼差しへ。コーヒージョンな組織文化づくりをこれから一層に大切にしていきたいと思いますし、自分の中にある「勿体ない」眼差しを見つけていきたいと思います。
ミマモリスト 眞田 海