今朝は田んぼの稲の周りに生えている
雑草を手刈りしたのですが、
稲のそばには稲そのものにしか見えない
雑草があります。
稲から穂が出ていると、なんとなく違いが分かるものの
そうでないとただ見ているだけでは、
稲なのか、、、違うのか、、、分からずに不安になってきます。
当主から色々とアドバイスを貰う中で、
何となくですが感じるのは、
雑草を見ていると見分けがつきませんが、
稲の方をみる意識を高めていくと
なんとなく稲の周りにある不自然さと言うか、
違和感なようなものを感じられることがあり、
時間は掛かりますが、見分けが少しつきやすくなりました。
しかし、改めて自然農とは自然に寄り添う心や、
自然界の「利子」を頂いているという心が無くては
心が折れてしまうなぁと感じます。
あれだけ手間をかけても、コメはイノシシや、鳥や虫や、
草花たちの生きる為のものとして持っていかれ、
人間に残るものは、どれくらいあるのでしょうか。
そもそも、作ったものすべてを人間が頂こうと思う心であれば、
自然農は向かないのだと感じます。
自然界の循環、成長、一年を通して生まれた全体の収穫「利益」から
自然界が毎年必要とする分「元本」を差し引いたものが
人間の取り分「利子」なのだというアイヌの方々の言葉が浮かびました。
地球の「元本」に手を付け続けるような生き方を
出来るところから、自分自身改めて行きたいと感じる
朝の草刈りとなりました。
お盆はアイヌの祭りに伺いますが、
今の時代の中でのその生き方とはどんな智慧があるのか、
色々とまた学んできたいと思います。
ミマモリスト
眞田 海