こんにちは、眞田です。
先日、保育園の先生方と一緒に
「日本の教育」とはということを学ぶ機会を頂きました。
江戸時代、識字率の高さや、
教え込まずとも学んでいく子どもたちの主体性の高さや
貧富の階層に関係なく子どもたちが幸せそうに見えた
「日本」という国が世界からどのようにみられていたのか。
それを江戸時代や明治時代の文献から集めてくれたクルーがいました。
私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもがいないと、いつもつまらなそうである。イザベラ・バード『日本奥地紀行』
この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私は、おお、神よ、この幸福は情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。
ヒュースケン『逝きし世の面影』p14
私は日本の子供が天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われている国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。モース『逝きし世の面影』p390
私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないと芯から満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りを持っている。毎朝六時ごろ、十二人か十四人の男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれ自分の腕に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題となっているらしい。イザベラ・バード『逝きし世の面影』p390
われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである。フロイス『逝きし世の面影』p393
注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも舟でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。
ツュンベリ『逝きし世の面影』p393
日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対して寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである。フィッセル『逝きし世の面影』p393
西洋化してきた日本の社会の中でも
「保育園」という環境はこの外国人から見た「日本人らしさ」というものが
一番体験しやすく、守られている場所なのかもしれません。
先生とはわが子のこと、お友達のこと、
いつも子どもを中心にして笑いあい、
共感しあい、たくさんのお話をさせて頂きますし、
保育園を通じてたくさんの保護者とも知り合い、
子どもたちを中心に旅行やキャンプ、
公園で遊んだり、預けあったり、相談しあったり。
先生方の子どもに対する眼差しが自然と保護者に伝わり、
そのまなざしが、保護者同士の絆や地域との絆を作ってくださっている
そんなことを実感します。
改めて地域における保育園の重要性、
日本の教育における「見守る保育」の重要性を感じます。
頂いた眼差しを私自身もしっかりと磨き、
繋いでいきたいと思います。
ミマモリスト
眞田 海