今月は到知の3月号の記事の中から、この方の記事を選びました。
(「社内木鶏」については下記をご覧ください)
https://www.chichi.co.jp/study/contentsstudy/shanaimokkei/
今回、葛西さんの記事を読んで、人生・仕事に活かして行きたい学びが沢山ありましたが、その中でも特に学びになったのは、「なぜ国鉄がつぶれたのか」という今回の記事の中にある事実の中で、葛西さんはシンプルに、国鉄には「自分のことを自分で決められなかったから」と仰っているところが大きな学びでした。国の補助が7000億でても1兆円の赤字体質であったのは、組織そのものが「自分では決められない」と今の体制を嘆きつつも、その体制のせいにし続けていた組織の人々一人ひとりにも原因があるのだと学びました。この補助金や制度というものについては、改めて危険なものであることに気づきます。先日も、社内の会議で「制度」がもたらす問題点を話し合ったことがありました。共産主義的なみんな一律の給与を出すとした場合、どんなデメリットが出てくるだろうか。反対に資本主義的な個々の生産性に併せた給与を出すとした場合、それはどんなデメリットが出てくるだろうか。それは、やはりカグヤがどんな会社を目指すのかということと、そのカグヤの理念から考えたらどうなのかということなのだと気づきます。共産主義なのか資本主義なのかというどちらかではなく、自律と協力、共生。その理念から考えたとき、社会や企業や個人がどちらも喜ぶ働き方とは何だろうかということにたどり着くのだと学びました。今回の国鉄の例は分かりやすいほどに明快な事例ですが、同じようなことが私たちの身近で自分自身に起きているはずです。例えば、自分の給与は自分が何を生産し、どれだけ世の中や仲間や会社に貢献したからなのかを明確に分からずにいることもあるはずです。そうなると、自分の給与は「自分の人生の時間を会社に使った分を会社に買い取ってもらった金額」という風になりがちです。自分が何を生み出したかどうかではなく、自分の時間を切り売りしたものが給与となれば、もはや会社の生産性は国鉄のように著しく下がり、やりがいも消えていき、つぶれていきます。給与は「制度」として出されるのではないのだと改めて感じます。
以前のリーマンショックでも、国民に一律の給付金がありました。あれもまた制度として出されましたが、実際にはどうだったでしょう。本当に有意義に使われたでしょうか。国から頂けるものは頂いたものの、大した意味はなかった。それはなぜか。給付という一方的で受け身なものではやはり、価値が見いだせないのだと感じます。お金の本来の価値とは、出す側と使う側が同じ「目的」や「願い」のために協力して取り組まなければ生まれないのだと気づきます。子ども手当も、ただ生活の足しにしていては、本来の価値ではなくなります。しかし、これを一つのプロジェクトとして、親として、国民として考え、子どもに何を投資することが大切かを考えて、そしてそのために使えば、お金はその紙幣価値以上の価値を生み出します。それと同じように、会社の給与もどう使うかで本来の価値が出せるかどうかが決まってくるのだと感じます。だからこそ、自分が働く会社のビジョンや理念を大切にし、理解し、血肉にしたいと思える会社を子どもたちには選んでもらいたいと思います。そのためには、まずはやはり自分たちがその大切さをしっかりと噛み締め、価値を高めて行けたらと思います。
ミマモリスト 眞田 海