物事が起きるという事は、必ず因果=原因と結果があります。
掌の上にあるたまごを手から落とせば下に落ち割れる。
これと同じように、今日起きた出来事を振り返れば因果があります。
そして、これからやろうとすることにも因果があります。
それは法則や原理原則といったものに従って見えてくるものです。
しかし私たちは原理原則だけで生きているわけではありません。
私たちは起きた出来事に対する因果だけではなく、起きた出来事の「意味」を見つけて生きています。
財布を落としてしまった時、その因果や事実は変わりませんが、財布を落としたことに対する「意味」は人それぞれです。
「最近の徳の無い行いの罰が当たった」と考える人もいれば
「疲れがたまっていたのだ」「きっと、誰かのためになるだろう」
「なんて不運なんだ」などなど、様々に人は感じ、そしてその感じたことから
「徳のある生き方に変えて行こう」「疲れない日々の働き方を見直そう」と意味をつけて行く人もあれば、思っただけで意味を付けずにそのままの日々を過ごす人もいます。
物事に意味を付ける習慣があるかどうか。
それはすなわち、起きた物事に対して主体的に学び、受け止め、自らを変革していく力であり、子どもたちに残していかなければもったいない力だと感じます。
ミマモリスト 眞田 海