私たちの普段の「暮らし」という言葉。
それが意味するものと「働く」というものが意味するもの。
それの間には何があるのでしょうか。
「暮らす」ことと「働くこと」それが分かれるというのは
「プライベート」と「仕事」が分かれるというのが分かりやすいのかな?!なんて思いますが、
そんな単純なことでもないのかもしれません。
それは単純です。
家族がいても、「自分」を優先した生き方が出来る家庭もあれば
家族がいなくても「自分」を優先した生き方が出来ない人もいる。
一概に「プライベート」と「仕事」を切り分けることはできません。
大学にあります。
大学の道は、明徳を明かにするに在り、民を新(あらた:親を新に改める)にするに在り、至善に止まるに在り。
そして続いて大学には「修身斉家治国平天下」という言葉があります。
天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。
とあります。
それを見て思うことがあります。
「自分」という一人の軸で生きていては、修養することは出来ないよ。
自分という存在は、簡単に言えば、家族や姉弟。妻や子供たち、友人や同僚、地域の人々や行政。、、少しずつ遠くなりますが、、、
そんな身近な存在にこそ現れ、そこを飛び越えて大義を出来るわけがないと言います。
簡単に言いますが、凄いことを言っているように思います。
仕事とは、能力でも技術でもなく、徳や人間関係、人間性が重要だとおっしゃっているようにも見えます。
暮らしと働きが分かれた現代。
何を取り戻すのか
それはもはや人間学そのもの。
それは子どもたちでいえば、生きる力そのモノであろう様に感じます。
ミマモリスト 眞田 海