今年届いたお年玉年賀はがきを確認したら・・・
切手シートが当選!^^
嬉しくて、会社の人に報告したら「まだそんな楽しみ方をしている人がいたとは・・・」と、やや失笑されました・・・^^;
SNSが広がったり、郵送料も上がったりで、年賀状を出す人も少なくなってきていますから、確かにこの制度&文化もいつまで続くか分かりませんね。
そんな中、「このお年玉年賀はがきっていつからあるのだろう?」と、気になったので調べてみると・・・
1950年のお正月用として前年12月に初めて売り出されたそうで、その仕掛けを考え付いたのは郵政省ではなく、なんと京都に住み大阪・心斎橋で仕立て屋を経営していた民間人、林正治さんという方だそうです。
第二次世界大戦中に郵便局での取扱いが中止されていた年賀状は、戦後の1948(昭和23)年、8年ぶりに再開されました。しかし終戦後の混乱期、散り散りになったまま消息のつかめない人も多数。社会不安の中、郵便の利用は低調だったようです。
そんな時、林さんは
「年賀状交換がかつてのように盛んになれば、お互いの無事を確かめ合い、励まし合える。そこにお年玉くじを付けて寄附金を加えれば、夢もあり社会福祉にもつながるのではないか。もらった相手も、懐かしさを感じるとともに心和むのではないだろうか。」
と、思いついたのだとか。
林さんは、すぐにお年玉くじ付き年賀状の図柄案を作って大阪の郵政局へ。そこで郵政大臣への紹介状を書いてもらい、7月には東京の郵政省を訪ね、その際、街の印刷所と相談して作った見本はがきや宣伝ポスター、お年玉くじの景品案を携え、郵政大臣から紹介された郵務局長相手に、その資料で熱意を込めてプレゼンテーションしたのですが、
「国民が困窮している時期に、送った相手に賞品が当たるなどのんびりしたことは言ってられない」などの反論もあり最初は、なかなか採用されず・・・それでも諦めず粘り強く交渉を続けた結果、無事、採用されたと言います。
そして、この夢のような年賀はがきは、発売と同時に大ヒットとなり戦争復興に向ける日本を明るくし国民の間で浸透していったそうです。
ちなみに、こうして発売にこぎつけた、初年度のお年玉付き年賀はがきの景品は、特等がミシン18台で、一等は純毛洋服地、二等が学童用グラブ、三等は学童用コウモリ傘。
1950年代はベビーブームとあり学童用のものが多く、1等はミシンやタンスが多かったみたいです。
また、林さんがプレゼン用に作成した見本はがきには
「この年賀郵便で不幸な人々にもお正月の喜びを分かち又皆様にも楽しいお年玉が届きます様に」
と、記されていたそうで・・・林さんの志や行動力には、時代を超えても頭が下がる思いが。
時代の変化と共に年賀はがきは減ってきていても、新しい年の始まりを共に喜び祝う気持ちや皆の幸せを願う心は、この先も続いていったらなぁと思います。
かぐやかコーディネーター
宮前 奈々子