純粋に何かのために自分を使うという行為が
なぜ人々や場を暖めたり、
いのちを宿すのかということを改めて考える機会を頂いています。
自分自身の行動が
「相手を喜ばせただろうか」
「場を喜ばせただろうか」
「自分の真心を喜ばせただろうか」
そんな風に初心から自分を振り返るとき、
そう簡単にできたなー!!と思える一日を過ごせることは
それほど多くありません。
それは、この振り返りの本質は自分にあるのではなく、
相手や場、真心を見つめ、耳を傾ける中にあるように感じます。
やったことが「正しかった」とその場で思えるのではなく、
何をそこから学び、明日への糧とするか。
そしてやりきる日々の中で、もし自分が与贈できていたとすると、
いつか相手や「場」が自分に与贈してくれるはずです。
そう思うと、自らが与贈するということは
相手を喜ばせたかどうかではなく、
相手にしてあげたかどうかではなく、
「自らが学ぶ機会を頂いている」ことであり
「自らが場や人から与贈され、支えて頂ける機会を頂いている」ことなのかもしれません。
「誰かのために」という想いと
「させて頂いている」という想いが重なるような
そんな時を与贈のチャンスと言えるのかもしれません。
ミマモリスト 眞田 海