先日行った会議の中では、二宮尊徳の「明日食べるものがなくて飢え死にする時でも、昨日までの感謝の気持ちで食器を洗う、これが徳に報いる道である」という話から「徳」の話になりました。
その話をちょっとご紹介すると・・・
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世の中の人は常の情として、明日食べる物がない場合は、他に借りに行くとか、救い求めようとする心はあっても、いよいよ明日は食べる物がないという時は、釜も膳も椀も洗おうという心がなくなってしまうという。
人情としては実にもっともではあるが、この心は困窮がその身を離れない根元である。なぜかといえば、日々に釜を洗い、膳や椀を洗うのは明日食べるためであって、昨日まで用いた恩のために、洗うのではない。これは心得違いである。
たとえ明日食べる物がなくとも、釜を洗い、膳も椀も洗ひあげて餓死すべきである。これは今日まで用い、命を繋いできた恩があるからである。これが恩を思う道である。
この心がある者は天意に叶うために長く富を離れない。富と貧とは、遠い隔てがあるのではない。明日助かる事だけを思って、今日までの恩を思わないのと、明日助かる事を思って、昨日までの恩をも忘れないという二つである。
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という二宮尊徳のお話ですが、「徳」を理解する時、
「徳を積む」の「徳」は、明徳をあきらかにする、本来もっている人間の徳、おもいやりのようなものを感じるが、
「徳に報いる」の「徳」となると、この茶碗を洗う話のように、「茶碗の徳に報いる」という意味で、ちょっと違う物のような気がする・・・という声がありました。
例えば、部屋の掃除も「部屋の徳に報いて掃除をする」と「次に使う人のために掃除をする」ではちょっと違うのでは・・・ということで、「確かに」と思うものがありました。
「徳」といえば、社内でも仲間の陰徳を見つけ合うという「徳宝酬」の取り組みを数年前から行っていたりするものの、
改めてその奥深さを感じ、まだまだその理解も行いも難しいものですが、
今回教えて頂いた「茶碗を洗う」話のように「徳に報いる」という考え方を大事にして、これからは、毎日の食器洗いや掃除の時などの身近な行いの中でも、食器などの物や、家、会社などの場に対しても「おかげさま、ありがとう、またよろしくね。」という気持ちで洗ったり掃除したりと心がけようと思います。
かぐやかコーディネーター
宮前 奈々子