アメリカでは今、人種差別の問題を皮切りに社会全体の悪しき風習、文化、構造が問題となってます。そして、その悪しき習慣を改善しようとデモが起きています。
悪しき習慣や文化を改善する時、一つはどんな国を作りたいか、どんな未来を作りたいかということから考え、悪しき習慣や文化を上書きする新たな習慣や文化を創造していくことが重要ですが、それと同時に、この悪しき習慣や文化が一体何を根源として生まれているのかを理解する必要があると思います。
人種差別や貧富の差の拡大、暴力、銃。不平等な教育システム。
何故そんなことが生まれているのかを考えていた時、ふと面白い記事を観ました。
日本の小学校の教室や勉強風景についてアメリカを始め、諸外国の人々が見た反応が面白かったのです。
https://children.publishers.fm/article/4226/
https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20181022-00101392/
https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20181022-00101392/
掃除は作業員がするもの。掃除をさせていたら、勉強をする時間が減る。子どもに掃除をさせるなんて、虐待。
「掃除」というものに対する価値観があまりに日本とかけ離れています。
「掃除」を日本の文化は元来、学問よりももっと上位にある「教育的位置づけ」をしていますが、諸外国は「作業」として教育に含まれないものと考えられています。
この背景にも人種差別や貧富の差、銃、暴力と共通するものが感じられます。
それはもしかすると「奴隷制度」ではないでしょうか。自らの国を繁栄させるために、自らが汗を流すのではなく、誰かを使って行おうとする「価値観」が根底に残っているのではないでしょうか。
一方で日本の教育を彼らが見ると、「なんて美しい教室なんだ」「なぜ落書きがないんだ」「まさか本当にこれが国中の小学校だとは到底信じられない」「自分たちの国では落書きに埃にまみれている」「こんな規律を見たことがない」といった、自国の小学校との差に歴然としています。
そして同時に、小学校だけでなく、街の姿、国民性の違いにも称賛の声が出ます。
各国が「掃除」を環境教育のカリキュラムとして取り入れるなど進んでいるようですが、
そもそもの「掃除」に対する価値観の背景にある「背景」=「自らが汗を流し、勤勉に暮らす」を改善しなければ中々難しいものだと感じます。
それは、日常の「暮らし」そのものを見つめ、改善することのように思います。
私たちの暮らしの中にも、「掃除」をロボットに任せたり、除菌や掃除機など表層の掃除として形骸化してきているところがあると感じます。
改めて「掃除」が持つ本来の意味を、暮らしの中で磨いていきたいと思います。
ミマモリスト 眞田 海