聴福庵で過ごすと、
薄暗さやろうそくの灯りの中で、
明暗が混ざるような体験をしたり、
苔庭や井戸の周りでは、
瑞々しさと鬱蒼とした感じが混ざった雰囲気も感じます。
日本の美を思う時、
日本の気候もそうですが、
神仏融合させていたりと
白黒をはっきりさせることよりも、
曖昧で割り切れない様子の中に、
「美」があるということを学びました。
「幽玄」という言葉も
幽・・・かすかで朧げな
玄・・・確かで奥深い
といった、両方の意味が含まれていたりと
割り切らないでいることの「美」があります。
この「割り切らない」美学は教育の中にも
本来の日本にはあるように感じます。
年齢で割り切ったり、学力で割り切ったりすることなく、
異年齢や異発達の人々が混在し、そして多様性を維持したまま
学びあっていく。
過去にあった寺小屋や学校も同じ考えで作られていますね。
メディアアーティストの落合陽一さんの講演の中で、
こんなスライドがありました。
効率重視・生産性重視で均一化された現代。
均一化では結局のところ個々の多様性に対応することはできません。
それが均一化の限界だからです。
だからこそ、これからの時代は、多様性に対応していくために
様々なAIを駆使して、ここに寄り添える下準備や状況分析などを行い、
寄り添う部分を人が行うなど、ここでも「機械」と「人間」を分けない「美」を
提唱されていました。
これからの教育環境を思う時、
この「AI」と「人間」という風に分けて考える価値観ではなく、
分けずに融合して考えるところに「美」があるのだとすると、
自分自身の価値観もまた刷新していく必要があるのだと感じます。
ミマモリスト
眞田 海