先日、TEDで中学一年の松谷知直くんの講演を見ました。
字を読んだり書いたり、集中することが難しかったり、
忘れ物が多かったり、音がいっぺんに入ってくる聴覚過敏や、
触られただけでも叩かれたと感じる触覚過敏がある為、
紙と鉛筆で授業を受けることが困難でした。
しかし、あきらめずに模索する中で、
iPadを活用する事が解決につながることに気づいたそうです。
板書に変わって、カメラで黒板を写したり、
キーボードで入力してノートを取ったり、
読み上げ機能を使って、授業を理解したり。
松谷君にとっては、iPadは
「教科書であり、ノートであり、鉛筆であり、消しゴムです。」
と言い、そのiPadとの出会いで、
「これだったら勉強ができる! 作文が書ける! 本が読める!」
と思ったそうです。
しかし、中学校ではiPadの持ち込みが中々許可されませんでした。
先生からは「これが壊れたらどうするの?」や
「ずるいと言われたらどうするの?」と言われて許してもらえなかったそうです。
最終的には、専門学校の先生からの説明の後に許可を頂いたそうです。
自分にあった学び方の選択肢が、この社会ではなぜ受け入れられないのか。
松谷君は障害の事をこのように表現していました。
「僕は、障害は僕の中にあるのではなく、僕の外、社会の中にあると考えています。
「障害」は困っていることで、「障害者」は困っている人です。
学び方の選択肢が増えることは、学ぶことへの困っていることを減らすことにつながると思います。
障害は、困っていることがなくなれば、障害は障害ではなくなり、個性になると思います。」
松谷君の言葉を聴いて、はっとさせられました。
多様性を受け入れることができない、社会自体が「障害」となっている事。
困っている人が、困っている原因として、「社会」が「障害」となっていること。
それは、保育の中でも、家庭の中でも、会社の中でも同じなのかもしれません。
誰かが、「困っている」のはその周りに「障害」があるのかもしれません。
だからこそ、本人を変えようとするのではなく、「環境」を整えていく事や
自分の価値観からのまなざしや刷り込みを取り払っていくことが大事なのだと
松谷君から教えて頂きました。
ミマモリスト
眞田 海