今日は、クルーの皆の協力と調整のお蔭で、
中学校の恩師の葬儀に参列し見送ることが出来ました。
先生は今の国語教育において、
「言葉の知識や意味、活用法など技術の習得」に偏っていることに
危機感や不安を感じていらっしゃいました。
確かに、私自身を振り返ると、大学受験の時、学んだ国語と言えば、
4字熟語、文法、古文、現代文。どれもが知識や意味、使い方の暗記ばかりでした。
本来、言葉と心は一体のものとして指導しなければならない。
今こそ”心を育む言葉の教育”をしなければならないと訴えていました。
しかし、この「心」の問題は「言葉の教育」(国語教育)においては
タブー視されてきたと仰います。
「国語教育は道徳教育ではない」という風潮があるようです。
ここにも、ものごとを「分ける」ことによって「一体となっていた本質」が
切り離される現象が起きているようです。
そこに切り込み、職員主導ではなく、生徒主体の授業。
知識を詰め込むのではなく、心を育む体験型の授業。
言葉の学びを通じて、他者と協働して生きていく授業。
そんな「心・言葉・身体・命」を育む国語科教育を創出しようと
中学校教育を通して、そして定年後は教員指導として大学院生専門の大学の
教授として実践し、著書も数十冊に及び、
文部科学省の学習指導要領作成にも携わるなど多大な功績を残していらっしゃいました。
正直なところ、今回の訃報が届くまで
そのことを知りませんでした。
先生の事を調べていき、本を読み、
先生のラジオを聴くうちに、
先生が目指していたもの、
先生の志の大きさを知ることとなりました。
葬儀のお経の中で先生の遺影と共に、
先生の声がずっと聴こえてきました。
中学一年からの先生との会話がどっと溢れてきました。
そして、その会話の一つ一つが
先生にとっての”心を育む言葉の教育”の実践であったことに気付きます。
先生が志したこと。
先生が生徒に大事にしてほしいこと。
これからの大人が子どもたちに大事にしてほしいことは、
既に先生が生徒に実践し、体験させてくれていました。
その事実をお経の中で体験し、止めどなく涙が溢れました。
「言葉は経験を越えない。だから価値のある経験や体験をたくさんしなさい。」
そう、先生は仰いました。
先生はそして、価値のある体験や経験を沢山僕たちにくださいました。
その経験を宝に、「心ある言葉の使い手」になれるように。
子どもたちにそんな大人として接する事が出来るように。
先生から頂いたご恩に報いて自分を磨いていきたいと思います。
先生、ありがとうございます。
ミマモリスト
眞田 海