昨日のブログの続きになりますが、
形にすると埋まっていく
家族には家族にしか感じられない
「居場所」というようなものが存在できるように、
働く職場にも働くものにしか感じられない
「居場所」というようなものを感じられることがあります。
しかし、そこに働く人が
利己的な働き方をしたり、人の意見に耳を傾けなかったり、
自らを省みなかったり、自分に利益のあることしかしなかったりすれば
とたんに「居場所」がなくなります。
それは、家族でも一緒ですね。
先日、場の研究所での勉強会で、
どうしたらこの「居場所」が生まれるのか。
そしてただ生まれるだけでなくその「居場所」がそこにいる人たちを
支えたり、育てたりするように「居場所」に力を持たせるには
どうしたらよいのかを教えて頂く機会がありました。
それが「与贈」という考え方でした。
「場」に宿る「いのち」
「居場所」にも「いのち=存在し続けようとする能動的な活き(はたらき)」
は存在するということ。
それは、そこに居る人々が「与贈」し続けた結果であり、
いのちを使い続けた結果であると私は理解しました。
いのち
「居場所」に「場力」が発生するにはそれぞれがそれぞれの「持ち場」を持ち、
その「場」に対してそれぞれがいのちを使うこと。
毎年、父親保育という取り組みを通じて、
異年齢の子どもたちが、子どもたち同士でどのように
学びあい、育ちあうのかということを少しずつ学ばせて頂く機会を貰っていますが
(父親保育については下記より参照可能です)
http://www.caguya.co.jp/?s=%E7%88%B6%E8%A6%AA%E4%BF%9D%E8%82%B2
子どもたちを見ていると、お兄ちゃん、下の子、真ん中の子。
という異年齢の中で、それぞれの立場は尊重しつつも、
その場、その場での遊びの中で最適な「持ち場」を見つけ出して
遊びこんでいく姿には、やはり学ぶべき姿があるように感じます。
本来、私たちの体の中にある細胞や菌たちが何を教えずとも、
命令をせずとも、調和し、協力し合ってバランスを保ってこの体を
生かし続けるように、
私たち自身も、自然と協力したり調和したりする力を
持っているというのは、人類が誕生してから常に、
村単位などの集団で協力し合い生きてきたことや、
子どもを皆で育ててきたことなどから見ても明白です。
私たちは智慧として「居場所」を作り、
「居場所」を守っていくことで、豊かに暮らしてきたのかもしれません。
今の時代、子どもを「母親一人」で育てるというようなことも
増えてきたと聞きます。
社会から「居場所」が消失していくことは
生きることの豊かさが失われていることだと思います。
この「居場所」を学び、実践していく中で、
少しでもこの社会に「居場所」を増やしていけたら、
子どもたちが喜ぶ未来や、社会を作っていけるかもしれません。
ミマモリスト 眞田 海